マレーシアとの接点があった妖怪の小説

小説を書いた話をしましたが、この小説の件とマレーシアとは全く接点がないと思っていたら、一つだけありました。

「妖怪タケカンパケタ」というタイトルなんですが、これを見て最初に思うのは「何だその名前は?」ということでしょう。自分でもこんな名前を口にしたのは、半世紀以上生きていて間違い無くこれが初めてのことでした。

何でこんな名前を考えついたのかというと、考えたのではなく夢で見たんです。もう一年ぐらい前の夜に見た不思議な夢はこんな感じでした。

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私はなぜだか、大きな男の赤ちゃんを抱えて巨大なショッピングモールの中を早足で歩き回っていました。出口を探していたのか、どこかに繋がる通路を探していたのかは定かではありませんが、結構あせって行ったり来たりを繰り返しています。

走りたいのに、足が重くてなかなか動かなくてもがきながら、方向音痴の私はどうしても目的の場所を見つけられず、とうとう屋上のような場所に出て来てしまいました。

そこでウロウロしていると、壁というか何か土手のような背景の前に、茶色っぽいクマのぬいぐるみのようなものが立っています。

その前を通りかかった時に、抱えていた赤ちゃんが言いました。

「あ、タケカンパケタだ。◯◯◯をする妖怪だよ」

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私がそれに対して「へえ」と言った瞬間に目が覚めました。

こんなおかしな名前は目が覚めれば忘れているのが普通ですが、この時は聞いた直後に目が覚めたので頭に残っていて、「おもしろい」と思ってスマホにメモしておきました。

この舞台となったショッピングモールが日本だったのか、マレーシアだったのかははっきりしませんが、ショッピングモールで迷ってあちこち探し回るという経験は、間違いなくマレーシアでのものです。

KLのミッドバレーのメガモールや他のモールでも、目的の物を探したり、駐車場への出口を探し回ったりで、ヘトヘトになった経験は一度や二度ではありませんからね。

このタケカンパケタも、抱えていた男の子も、夢の中の雰囲気も、全く怖かったり邪悪な感じはなかったので、この「◯◯◯をする妖怪」を主人公にしてみようとしてできたのがこの話です。

書く時には、ひょっとしたら何か以前に見たり聞いたりしたものが、突然思い出されてこの名前が夢に出て来たのかと思ってネットで検索しましたが、Googleでの検索結果は全くのゼロでした。何も出ません。「◯◯◯をする妖怪」というのも見つかりませんでした。

錯覚だとはわかっていますが、今はネットの空間に存在しないものは実際にも存在しないような感覚を持ってしまいます。

それがこの話を書いたことで、いま「タケカンパケタ」で検索するとヒットしますからとても不思議な感じがします。自分の手で妖怪をこの世に生み出してしまった!という感覚です。創作するというのは面白いものですね。

妖怪と言えば、マレーシアには妖怪や精霊の話がたくさんあるみたいです。漫画家の水木しげるさんも、マレーシアの少数民族を取材して妖怪(精霊)の本を出しておられます。先日読んでみましたが、マレーシアの先住民の中には豊かな精霊信仰があるようです。

こんな経緯があるので、タケカンパケタはマレーシア生まれとは言わないまでも、何かマレーシアとのつながりを感じてきました。

それにしても何であんな夢を見たんだろう。あの赤ん坊が誰だったのかも謎です。

最近妖怪づいています


去年の暮れに初めて調布市の深大寺に行ったら、門前に「鬼太郎茶屋」というのがありました。キャラクターグッズなども売っています。水木さんは調布に長く住まれたようですね。調布市の名誉市民だそうです。


水木さんはよくニューギニアに行っていたそうで、その際にマレーシアにも立ち寄ることがあったと、90年代にマレーシアにいた頃に聞いた記憶があります。


水木さんとノンフィクション・ライターの大泉実成さんの「水木しげるの妖怪探検(文庫)」(単行本は「水木しげるの大冒険」という題)
94年にマレーシアのオラン・アスリ(先住少数民族)を訪ねて、精霊を探し求めた旅を綴ったもの。
現地の人との交流や精霊の話、水木さんが描いた30点の精霊の絵などが収められているが、実はこの本は、旅を通して水木さん自身を描いた本だと思います。
水木さんの人柄や、妖怪のもとをたどっていくと精霊信仰につながる、といった話がとても興味深かったんですが、私はまだ日本が元気だったころの勢いが残っている文章も嬉しかったです。

 


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オウムアムアについて

オウムアムアのニュースをよく見たのは去年2019年の始め頃だったでしょうか。ネットのニュースに時々出てたから、細長いオウムアムアの想像イラストとともに、ニュースを読んだ方も多いんじゃないかと思います。

もともと宇宙の話は好きなので、このオウムアムアのニュースには結構興奮していました。特に、太陽から離れる時に加速をしたという話には、なんとかもっと詳しく調べられないものかと思っていました。(「加速した」というのは、太陽から離れる時の減速の度合いが計算した値より緩やかだった、という意味だと思います)

そもそも、人類が初めて観測した太陽系外からの物体であって、細長い形をしていて、加速している、とこんなに珍しいことが重なることは考えにくいので、多くの人が「何かあるかもしれない」と考えたくなるのも無理もないことだと思います。

私もその一人ですが、特に奇妙に感じ始めたのが、加速の件もさることながら「細長い」ということ。幅と長さの比は1対10ほどもあると推測されているそうです。

そんな細長いもの自然界で見たことありますか?

もちろん、生物ならば、木やヘビやミミズなどいくらでもいますけれど、非生物では割と珍しいんじゃないかと思います。

自然界の細長い物って何があるだろうと、ずっと考えていて思いついたのは、断崖絶壁なんかで見る柱状節理の岩、顕微鏡で見た雪の結晶、鉱物の結晶、鍾乳石、つらら、それから岩山が水とか風で侵食されてその一部が柱状に残ったもの。

オウムアムアが自然のものだとすると、最後のものが一番それらしいけれど、地球ではなかなか見る機会はありませんよね。しかも数百メートル級のものだとかなり珍しいんじゃないでしょうか。

真実が何なのかは今になっては誰にもわかりませんが、初めて見つけた太陽系外からの物体が、地球ではあまり見慣れない形のものだった、しかも妙な加速をした、というのはやはりエキサイティングな話だと思います。

というわけで、「オウムアムアむ」という話を書いたのですが「この物体を自然のものだと決めつけるのは適切ではない」という立場のSFとして書きました。そのほうが世界が楽しくなるような気がしますしね。


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アダムの選択(亜東 林)

 

手のひらの中の彼女(亜東 林)

 

シライン(亜東 林)

 

LIARS IN SPACE (Rin Ato):シライン英訳版

英訳の経緯はこちら

 

 

信用スコアをヒントにして書きました

最近話題になってきた信用スコア。

中国の信用スコアというのが、去年(2019)あたりからよくニュースで見られるようになりましたね。

どうやら、有名なところではアリババ・グループの芝麻信用(ジーマ信用)などが、グループが提供するサービスの利用者の信用度を点数にして、良い点数の保有者にはグループ関連のサービスに様々な特典を与える、といった仕組みから始まっているようです。

信用度を測るのには、学歴とか仕事とか、グループのサービスの利用度とかクレジットの返済の履歴とか、様々な要素をAIも使いながら分析して点数を弾き出していると言われています。

特典はお金を借りる時の金利が下がったり、提携先のホテルやレンタカーのデポジットが必要なくなったりと、いろいろあるようです。

アリババ・グループの他にも同様の信用スコアを提供する会社があって、国民の間にかなり普及してきたことから、こういったスコアが他のサービスや市民の生活にも影響してきているとのこと。

例えば、スコアが低いと交通機関の切符が取りにくくなるとか、逆にスコアが高いと外国に行く時のビザ申請が簡単になるとか、公的な仕組みにも使われるようになって来たみたいです。

さらに、中国の地方政府も信用スコアの仕組みを導入し始めているそう。中国は国をあげてこういう仕組みを推進しているみたいですね。

最初この話を知った時は、「世界はそんな段階に突入したのか!」とまさにディストピアを想像して驚いたのですが、少なくとも金融の世界では欧米や日本でも信用スコアというものが以前から存在しているそうです。最近電車の中でも、AIを使って点数付けして融資するという広告をよく見かけます。

でも、もしそういうスコアが生活や基本的な権利など他の側面まで影響するようになったら、いったいどうなるんだろうという疑問を持って書いたのが「得失点差の小さい男」という話。ここでは、「スコア」ではなく「ポイント」という言葉を使いました。

結末は特に考えずに書き始めたのですが、念頭には「こんな社会はいやだ」という結論になるだろうな、と思って書き始めました。話の設定はポイント制度の究極の形として、政府がこの制度全体を管理しているというものです。

嫌な社会になるだろうと思いながら書いていたんですが、実は書いてるうちに一見「これいけるじゃん。おもしろいんじゃないの?」という感覚になってきました。

確かに、こういう仕組みは社会を良い方向に誘導する手段として、ある程度は使えるような気はします。

だけど、よく考えれば、こういう仕組みが大手を振るって構築され始めると、特に公的な仕組みに広く導入されてしまうと、とても嫌悪すべき状況が出現するだろうというのが書いてみた感想です。

今までも、個人を評価するためのレッテルのようなものは存在していました。たとえば、本や記事に書かれる著者の略歴がそうだと思います。

でも、いま書かれている略歴は数字で表現されるものではなく、あくまでもその人が経験、あるいは成し遂げてきたことを、数字ではなく自己申告の言葉で表現したものです。

私はそういう略歴を見て「わーすごい。こんな経歴の人には何をやってもとてもかなわないや」と思うことが確かにあります。

でも、人によっては「そんなもの何の関係もない。自分は他の人が略歴欄に書くようなことは何もなくても、これまでの自分に誰にも負けない自信と誇りがある」と言い切れる人がいっぱいいますよね。

要は、物事を考える際の価値観には人それぞれの多様性があるということだと思います。

それがもし、点数として、数字だけの表現による単一の価値観として社会に共有されてしまったなら……というのがこの話を考える際に本質的に重要な事なのではないでしょうか。

略歴や人の行動を点数に換算するルールは、信用スコアの仕組みを管理する人が決めてしまうわけですからね。

簡単な例で言うと、受験勉強をしていた時の自分の偏差値とか、学校の偏差値ランキングの数字みたいなものですね。

実際長い間生きていると、そんな数字に関係なく活躍して幸せになっている人は普通にいっぱい見ています。

受験の偏差値は、今も昔も参考情報としてしか使われないのでまだいいんですが、もしそういう数値化された個人の評価にかかわる情報が、公的な仕組みに組み入れられてしまったらどうなるか。

公的な仕組みということはそこから逃れられないわけで、そうなるとかなり困ったことになるのではないかと思います。

最後に、この記事を書くにあたって色々検索していたら、信用スコアについて考察した論文を見つけましたので紹介しておきます。とても難しい内容ですが、時間をかけて読んでみたら、なるほどなぁと感心してしまいました。こちらです。

 


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