DAOとわがストーリー

DAOという言葉をつい最近知った。Decentralized Autonomous Organizationの略で、分散型自律組織と訳すようだ。「だお」と読んでいいみたいだ。

2010年代半ば頃から注目されてきた概念で、仮想通貨関係の人たちが出どころらしい。自分でもはっきりとは理解できていないし、概念自体もまだ流動的にも見えるが、広い意味では中央集権的な管理を廃し、全参加者が平等な立場で物事を決定していくような(IT技術を駆使した)組織ということらしい。

そのためにガバナンストークンというデータを使うのだが、これは偽造が不可能な投票用紙、あるいは株券みたいに出資に応じた権利を示すものなんだと思う。これこそが、仮想通貨に使用されているブロックチェーン技術(データの改ざんを事実上不可能にする)を駆使している人たちが、DAOという概念を言い出した理由なんだろう。

もう一つ、この概念の説明に使われる言葉がWeb3(あるいはWeb3.0)だ。

Web1がインターネットの初期で、大半のユーザーは誰かがネット上に掲示したものを読むだけの時代。

Web2が現在のインターネットのように、 SNS等でみんなが参加することができるが、それはTwitterやYouTubeのような大きなプラットフォームに乗っかっている時代。

Web3はブロックチェーン技術を使って、現在のような中央集権的なプラットフォームを介さずに、ユーザーが平等に参加するネットワークそのものがサービスそのものになっている、といったネットワークを言う概念らしい。

私の理解では、このWeb3やブロックチェーンやガバナンストークンといった概念と技術を駆使して作り上げる組織体を、DAOと呼ぶのだと思う。

で、なんでそんな話に注目するのかというと、これが自分が書いた小説のストーリーととても重なる部分があったからだ。

この小説を書き終えたのは2020年の初めで、このころ自分ではDAOもWeb3という言葉も概念も知らなかった。ブロックチェーンの概念だけはおぼろげに理解していたと思う。

ただし、この小説で書いた世界は仮想通貨の話ではないし、経済的な仕組みの話でもない。SFの体裁を取っているので、もっと将来の社会の姿として、政治体制そのものが分散型で自律した組織になっているという想定なのだ。

もともとの問題意識は、中央集権的かつ強力な汎用AIの出現に対する懸念からだった。自分には、そんな物の存在がディストピアを出現させるのは間違いないと思えるので、ディストピア化を回避するにはどうしたらよいかと考えたのが、個々の人とペアになったAIを人の数と同じだけ分散配置した、ネットワーク型の社会なのだ。

現在のようにトップに最高権力者がいて、その下に代議員などの代表者、その下に一般の人々がいるというピラミッド型の社会ではなく、もっとフラットな社会だ。まあ、究極の民主主義社会と言ってもいいかもしれない。

しかし、無数のAIを組み込んだそんな仕組みを構築することなど、おそらく数百年経ってもできるとは思えない。でもそれではストーリーにならないし、描きたいことも描けないので、SFの力を借りて地球外生命体を登場させ、地球よりも進んだ(と思いたい)社会集団を見せることにしたというのが話の骨格だ。

なぜこの分散型の考え方に辿り着いたのかと自分自身を振り返ってみると、やはりSNSや電子掲示板の存在が大きいと思う。ジャスミン革命では実際にSNSを介してチュニジアの社会が大きく動いたし、最近のアメリカの大統領選挙などもSNSにある程度影響されていると思えるからだ。

きっと、DAOやWeb3を言い出した人たちだけでなく、SNSに参加している世界中の多くの人たちも、意識するしないに関わらず、人々が対等な立場で参加して構築される今よりもフラットな社会の到来の可能性を、感じ取っているのではないだろうか。

実際にこういう方向に社会全体が向かうかどうかはわからない。また、このストーリーで書いた社会はあまりにも極端で、実現は1000年かけても不可能だろう。

しかし、仮想通貨(最近は暗号資産と言うようだ)が既に実現しているとおり、経済やビジネスの分野では、これから当面の間DAO的な試みは続くのではないかと思う。それが今より大きな成功を収めるかどうかはわからないが、少なくともいま旬の話であることは間違いないだろう。

実はこのDAOという言葉を知ったのは、ZOZOの創業者の前澤友作氏がスタートさせたMZDAOというコミュニティーを知ったからだ。8月にコミュニティメンバーの募集を見つけ、おもしろそうなので参加した。これから、このコミュニティーの中で、分散型組織としての特徴を活かして新しい事業を作っていくということだ。

なお、MZDAOのメンバー拡大のためのPRコンテストなども始められるようだが、このブログ記事は自分の小説の宣伝と捉えられると嫌なので(というか宣伝なので)、コンテストには参加しないでおく。

というわけで小説の宣伝です。長い話で、文庫本で言えば300ページぐらいある内容です。しかも、とてもとても面倒臭い話になっているので、「最後まで読める可能性は低い。それでもよければ…」と開き直ってお薦めします。

話の中では調子に乗って、テラフォーミングや宇宙船に関する生かじりの技術についても何ヵ所か書いてますが、これらが頭に入らなくとも(そもそも、間違ってるかもしれない)、ストーリーには全く影響しません(笑)。

シライン(亜東 林)

なんと英語版もあります。

LIARS IN SPACE (Rin Ato)

もう一つ、このストーリーの前段の話です。分散型AIに関する内容で、Siriみたいなボイスアシスタントの話です。こっちの方が短いし読みやすいかもしれません。でも、まだDAOにはなっていません。

手のひらの中の彼女(亜東 林)

 

アナログAIの会社を見つけた

ついに見つけた。アナログのAI素子を作ろうという会社があった。RAIN NEUROMORPHICSというフロリダ大学発のスタートアップのようだ。もう立ち上げてから2〜3年は経つようだ。

以前、アナログでAIというかAI用の素子を作ろうという研究をどこかでやっていないかと、検索で探してみたが全く見つからなかった。まあその時は日本語でやっていたからかもしれない。今回はたまたま英語のtwitterで見つけた。

しかし、いま覚えたばかりのニューロモルフィックというカタカナキーワードで検索したら、いくつか出てくる。九大などもやってるようだ。しかしどのサイトも割と新しいから、本当に最近出始めたのかもしれない。

neuromorphicsという概念は80年代からあったようだが、これまでは神経細胞のような働きをデジタルコンピューターでシミュレートしてきたのだと理解している。画像処理チップなどが使われてきたのはまさにこれだと思う。

しかし、もともとは自然界で生理的現象や物理的現象として起こっていることをシミュレートしようとしているのだから、当然効率が悪そうだ。ものすごい設備と電力を使う。

対して、アナログでやろうとしているのは、素子そのものに物理的に神経細胞的な働きをもたせるようなものを考えているのだと思いたい。でもよくわからない。

しかし、従来型集積回路の効率化の頭打ちが見えてきた今、何十年か先になってAIが活躍しているとしたら、きっとこのアナログ型というか、素子そのものが神経細胞的に働くAIが本命だと思う。

今あるコンピューターはそのアナログAIの周辺機器として使われるのが最もありそうな形だろう。量子コンピューターとて、知る限りでは汎用性がないので、AIという形にはなり得ないと思う。

もし、そういう時代がくればきっと倫理的な問題がAIの進歩の足枷になってくるのではないか。どう見ても意識を持ってるように振る舞うAIのスイッチをいきなり切れるかどうかということだ。でもまあ、それはその時の問題だろう。

こういうAIを開発することにはやはり一抹の不安というか、リスクが伴うように思う。しかし、結局だれかが開発するのは間違いない。

だから、開発を進める人たちは不適切な利用がされないような仕組みを先手先手で構築していってほしい。

ちなみに冒頭の会社のRAINという名前の由来が気になる。ぜひ知りたいものだ。

 

シライン(亜東 林):改訂版

LIARS IN SPACE (Rin Ato):シライン英訳版

英訳の経緯はこちら

神社のこと(8)ー リス

この神社はリスが住むような自然の中にはありません。

だから、リスを見た!という証言が近所の子供たちから出始めた時には衝撃が走りました。なにせ、カブトムシの幼虫がいた(実際はたぶんコガネムシの大きいやつの幼虫だと思う)というくらいで騒ぎになるところですからね。

まあ、間違いなくどこかの家から逃げ出したリスが住み着いたんだと思いますが、しばらくはこのリスを捕まえることが子供達のあこがれに。

私も御多分にもれず、という感じでした。はっきり覚えていませんが、一度境内を走っているのを見たはずです。

そして、2回目。なぜかたまたま神社の裏に一人でいた時のこと。いました。走っていましたが、神社の建物を囲む塀の中に入ってしまいました。

このあたりの神社の標準的な構造なのかどうか、神社の本殿は石垣を組んだ土台の上に乗せられています。

そこに向かって拝むための拝殿が正面にあり、本殿と拝殿の間の距離を少し開け、二つの建物はブロック塀で繋がれています。

つまり、本殿と拝殿の間の空間は中庭のようになり、2メートルはあろうかという塀で囲まれ、中には入れないようになっています。

リスはその中に入ってしまいました。

しかし、少年は諦められませんでした。もう半世紀以上前のことだから白状しますが、その2メートルの塀を乗り越えて中に入ってしまいました。

ふだん臆病で、他の子供達がやっていることはいつも遠目に見て、まずいことが起こらなければ自分も真似してやってみる、という慎重な子供だったのが、あの小さな動物に惑わされて、我を忘れてしまったということです。

塀を越えるのも容易ではありませんでした。石垣とブロック塀の境目の段差を利用し、足がかりを見つけながらなんとか落ちずに乗り越え、中に飛び降りました。

リスはいました。どれくらいの時間そこに居たのか覚えてませんが、最後はリスを追いかけて社殿のすぐ前まで行き、前を駆け抜けるそのリスをあわや掴むというところまでいきました。

左手の薬指と小指を駆け抜けるリスの尻尾がふわっと触ったのを覚えています。

そのあと誰にも見られず(たぶん)、うまく中から出ることができたのは幸いでした。

あの、神様の目前でおしいところで取り逃がしたというのは、なんの人生の暗示なんでしょうかね。しかし、もしあの時尻尾を掴んでいたら、なんというか現実感がありすぎて、今となっては良くなかったような気もします。

 

シライン(亜東 林):改訂版

LIARS IN SPACE (Rin Ato):シライン英訳版

英訳の経緯はこちら

手のひらの中の彼女(亜東 林)